。
“できる…な”
“こいつ…強い”
対峙する二人の距離は徐々に縮まっていく。
さきほどの攻防で相手のレベルは知れた、少なくとも陸刀のヒットマンよりは桁違いに強い。
殺気を放って牽制するも相手はそれ以上の覇気で押し返してくる。
その姿はあくまで自然体。傍から見ると見詰め合っているしか見えない二人だが、水面下では激しい主導権争いが始まっていた。
不意に、相手が動くのを止めた。その距離約10メートル、一足で跳ぶ事も出来るが多少無理があるし相手もそれを見越しているはず。もし此方が下手な動きを見せれば相手が有利になる。攻撃より迎撃するほうが早いためだ。
相手の手がジャケットの内側へと伸びる。
(!)
銃か?
「安心しなよ。ただ煙草を吸うだけだ、あんたが思っているようなもんじゃない」
その言葉どおり、手にあるのは普通の煙草。警戒していた物ではないが、それでも油断できない。
別に銃など向けられても怖い物ではない。発砲する前に仕留めてしまえばいいのだから。それに意外に知られていない事だが、銃は照準を向ける時にどうしても視界が狭くなりがちなのだ。つまり、一瞬で相手の懐に飛び込めれば問題ない。
それに生粋の殺し屋は銃は使わない。いや、使うとしても小口径でサイレンサー(消音器)付きで音を消すはずだ。殺し屋は目立ってはいけない人種なのだから。
もっとも、彼女が警戒しているのは、発砲音を聞いて警察が駆けつけて来る事だけである。自分も動き辛くなることだ、それは避けなければならない。
。
ボシュ
。
100円ライターで咥えた煙草に火を付ける。
煙草をゆらゆら燻らせると滑るように話し始めた。
「もう話し合いも無駄みたいだから訊かないけど、せめてこの煙草くらいは吸わせてよ。それから始めても別に遅くは無いだろうしさ? な?」
時間稼ぎか? いや、そうじゃない。
自信だ。絶対に勝てると言う自信がそうさせているのだ。
それは自信から来る余裕そのもの。
(無礼られたものね…)
静かな怒りが下腹部を熱くする。
隙だらけの今なら簡単に殺せる。しかし、それがかえって怪しい。殺気満々の敵に向かって、果たして普段通りの行動を取れるだろうか。もしかしたらそれ自体が罠なのかもしれない。念のため辺りの気配を探る。
「そんなことしなくても、周りには誰も居やしないよ」
「……」
不承不承と言う感じで腕を下げる。
自分が何をしているのかを簡単に見抜く女に警戒しつつ、彼女、雪乃絵真紀はこの女の用件を飲んだ。
「それが良いって。無駄な力が多すぎると周りが見えなくなるからね」
「そういえば…名前、訊いてなかったわね」
「名前? アタシの? はは、そういやそうだった。こりゃ失礼」
黒髪を後ろへ流しながら、彼女は臆すことなく名乗った。
「アタシの名前は…、恭子。高梨恭子だ」
高梨恭子が煙草を吸っている間、辺りは不気味なほど静まり返っていた。
まるで嵐が来る直前であるかのように…。
。
。
。
。
。
。
。
。
。
。
。
事の起こりは10分前―――
真紀は京次と再会したあの丘の林の一角から、夫であり娘の父でもある、皆月京次の家を見張っていた。雪乃絵・鳳仙・陸刀の3家の刺客から娘である命を護る為に。
数日前、雪乃絵御緒史に雇われた『エデン』の母を撃退させてからは、刺客等の招かねざる客は無い。
切り札である『エデン』を向かわせたはいいが、命の拉致はおろか真紀すら討ち取られなかったのである。暫くは出てこないだろう、と思うものの、やはり気が抜けない。
今日は週末。命も学校へ行くこともなく京次も家に居る。中から命とサラの声がここまで聞こえる。また喧嘩でもしているのだろう。それを止め様とする京次の声まで聞こえてきた。自然と口元が緩む。
京次が家に居るなら真紀が影ながら見守る事はないのだが、爆弾の解体や不審物の除去などは自分にしか出来ない。
だから居なくてはいけいない。
…いや、これは建前だ。真紀も十分判っている。
本当は少しでも長く娘を見ていたいだけなのだ。この見守るという時間帯は、一番神経を使うと同時に安らげる時間でもある。いつかは自分の手を離れて旅立つ日が来る。でもそれまでは見守り続けて居たい。たとえ刺客と死闘を演じる事になっても。
矛盾した想い。しかしそう思っても罪にはなるまい。
真紀は命の母親なのだから。
でも頭では理解していても心がそれを許さなかった。
そんな感傷に浸っていたら何時か挫けてしまう。そんな好機を敵は逃すはずは無いのだ。
自分は悪魔と呼ばれようが鬼となろうが生きていける。襲い来る敵を殺す事が出来る。
娘のためならば。
ふと気付けば、アパートから姦しい声が聞こえなくなった。
時間はちょうど昼時。おそらく昼食なのだろう。いくら喧嘩が絶えないからといって、食事時まで騒ぐほど仲が悪いわけでもない。むしろ逆か。
。
ガサッ
。
後ろで、小さいが何か動く音がした。
「……」
視線を後方へと動かしつつ、いつでも動けるように踵を浮かせる。
「チチチチッ」
真紀の気配に驚いたのか、一羽の小鳥が茂みから勢い良く飛び去った。
物音の犯人はどうやら小鳥だったらしい。
それを確認すると、真紀の視線は京次のアパートへと戻す。その顔は、戦士のそれではなく、一人の母親の顔であった。
普通ならこのような時間が、普通の生活とは懸け離れているが、当たり前の様に過ぎてゆく筈だった。
しかし、予測できない事態というのは、台風の様に予兆がある訳も無く、突然やってくる。
この場合は、声だった。
「おい」
(!!!)
真紀は急ぎ振り返った。
そこには黒いライダースーツを着た、一人の女が立っていた。
まるで鷹のように鋭い目。筋の通った鼻筋。小さく整えられ燃えるような唇。黒く艶やかなロングヘアーを後ろで無造作に纏めた髪。身長は真紀より少し高いくらいか。ボディラインは細い、筋肉質と言うには程遠いが華奢と言うわけでもない。むしろ良く引き締められている。陸刀や鳳仙の殺し屋のような体格ではなく、どちらかと言えば京次のような“格闘家”の体格に近い。
だがそんな事はこの際どうでもいい。
それより問題なのは、この女が近くに居る事に気付けなかった事である。
(この私が気配を読み違えた?…)
いや、それはない。断言できる。
ではどういうことか? 答えはこの女が気配を絶って近付いて来たからに他ならない。そんなことをする理由は決っている。
こいつが、サラやアケミと同じ人種だから。
「雪乃絵命は何処だ…」
案の定これだ。
真紀は返事をしない、そんな事をするのは無駄なだけ。
それに、返答は一つしか知らない。
軽やかな音を立てて、真紀は跳んだ。助走なしのハイジャンプ、咄嗟に防御したとしても無意味だ。もう既に真紀の拳が相手の顔面を射抜いていた。
「ごめんなさい、私、挨拶って一つしか知らないの」
頭上を越え着地する真紀の声は、刺客の女に聞こえることはない……
ハズだった。
「…やるじゃん」
「!!」
「でも、アンタの拳は、アタシまで届かない」
無表情になる真紀の前には、確かに拳を叩き込んだ女が、何事も無かったかのように立っていた。
手応えはあった、ならば何故立っているのか? 答えは簡単。防御しきったのだ、雪乃絵真紀の攻撃を。
「あいにく…、こういう時の礼儀はこれしか知らない…」
ゆっくりした動作で、大きく仰け反った。
顔に近付く何か…。反射的にスウェーで躱しながら、後方へ跳び退る真紀。それがただの前蹴りだと判ったのは、彼女が足を戻している所を見たからだった。前蹴りは普通、中段を狙うはず、しかしそれは明らかに上段をしかも顔面を狙ってきた。
「ほぉ…」
今の動きに感心したのか、あるいはよほど驚いたのか、追撃の気配は無かった。
。
。
。
――――そして現在。
恭子が煙草を吸い始めて、一分少々経過した。
その間、両者に会話というものは存在しなかった。というより形を潜めてしまっているというのが正しい表現か。
真紀はその間ずっと殺気を叩き付けているが、暖簾に腕押し、まったく気にしていない。
鈍感なのか、はたまた強者なのか、鈍感ならばいいが強者ならば尚更始末に置けない。もしそうだったら、その強さは以前闘った『エデン』と同等、あるいはそれ以上となる。
先程見せた前蹴りにしても、蹴る直前の動作すら見えなかったのだから。
雪乃絵御緒史に雇われた殺し屋は『エデン』と『白い死神』と他に何組か居るが、これほどの猛者を真紀は知らない。少なくともそういった情報は入っていない。新しく雇い入れたのだろうか?
「…疑問に思うこともあるだろうけど、詮索するのは終わった後でもいいっしょ?」
相変わらず人の心を見透かした事を言う恭子。むしが好かない、それが恭子に対する真紀の印象であった。
奇妙な沈黙と共に流れる時間は、非常に窮屈なものだった。
それは恭子も感じている事だった。さっきから隙を探しているが、相手に付け入るだけの動揺も乱れもない。
だから敢えて煙草を吸った。油断させる為これほど好都合なアイテムは他に無い。
しかし引っ掛からなかった。恭子自身が殺気を押し返しているせいもあるが、一番大きいのは雪乃絵真紀が自分を『殺す』という一点に集中しているためであろう。
そういう点から言えば、真紀は純粋な存在なのだ。純粋であるが故に策に引っ掛からない、恭子にとっては非常にやりにく相手であった。
やがて、煙草は白い灰となって落ちる。
「…そんじゃ、始めっか?」
吸殻を真紀に向かって弾く。
飛び行く吸殻がちょうど両者の中間まで来た時、吸殻は音も立てずに弾けた。
。
ゴッ
。
拳と拳がぶつかり合う。真紀のフックが、恭子の正拳が、煙草の吸殻を粉々に粉砕した。
引く恭子に斧の一撃のようなフックが打ち下ろされる。体重を乗せたその一撃は、たとえ熊であろうともKO出来る威力ある。
「ヒュォ」
短く息を吐くと、その拳めがけて廻し蹴りを放つ恭子。
。
ガカンッ
。
遠心力を過分に効かせた恭子の廻し蹴りは、拳に当たると強引に軌道を変えさせた。
体勢が崩れた真紀だが、クルリ、という擬音が聞こえてきそうなほど見事な宙返りを決めると、そのまま踵落しを繰り出した。
天性のバランス感覚と柔らかい体があって、はじめて成立する攻撃だ。
必殺の意を込めた一撃。脚が空気を切り裂き唸るを上げる、その嘶きが殺傷力十分である事を知らしめていた。
恭子は、咄嗟に、右腕を上げる。受け止めるつもりなのか。
(無駄だ)
構わず振り下ろされるギロチン。
踵落しを受けた瞬間、恭子の体が大きく沈む。脚のバネを利用して衝撃を大地へと逃がすためだ。下手に逆らえば反力で自分がダメージを負ってしまう。
(バカなッ!?)
これには素直に驚いた。まさかあの一撃を受け止め、さらに威力を殺すとは思ってもみなかったことである。
(驚くにはまだ早ェ)
朦々と上がる砂煙の中、彼女の眼光は、雪乃絵真紀を捕らえていた。
右手で真紀の足首を掴み引き寄せ、カウンターで顔面めがけて上段突きを打ち込む。
「破ッ」
それとほぼ同じタイミングで、恭子に握られている箇所を支点とし、踵落しの反動を利用した回転キックが側頭部へ向かい打ち放たれた。
。
バシン
。
恭子は掴んでいた右手を離し防御し、真紀はといえば自由になった右足を大地につけていた。自分に打ち放たれた左拳は右手の中にあった。
蹴りが来る一瞬前、咄嗟に掴んでいた右足を離し、掌底と柔軟な手首の関節で威力を殺した恭子。
拳にスピードが乗り切る前に、体重を微妙に移動させ恭子の拳を止めた真紀。
今この時点で言える事は、二人の総合力は高レベルで大差ない。唯一異なる点は、物理的スピードでは真紀が上、物理的パワーでは恭子が上、ということである。
「チッ」
舌打ちをして恭子が下がった。
二人とも蹴り等を多用する戦闘を好むという似通ったスタイルなので、近接乱打は望む所ではない。さらに言えば、近接戦は喰らわなくてもいいダメージまで喰らってしまう。それはこの後も来るやも知れぬ刺客を始末する真紀にとっても、嬉しい事ではない。
だが相手が下がるという絶好の好機を、真紀が逃すはずがない!
真紀の身体が大きく撓んだと思いきや、独特のステップで円を描くように怒涛の連撃を撃ちだしていく。それを見た者は、まるで真紀が幾人にも分身したのではないかという錯覚すら覚えただろう。
恭子を確実に仕留める為には、エデン戦で用いた『倒木法』では限界があった。現に恭子はその攻撃を防ぎきってみせた。それに『倒木法』は攻撃力が大きい分、モーションも大きい。しかしこの方法なら多少ガードを固めたとしても、いずれ力尽きる。さらにエデン戦で得た経験を元に、真紀はこの体術に『倒木法』をプラスした。回転で加速した一撃は、例えエデンでも防ぐ事は難しいだろう。
雨のような攻撃が恭子に降り懸かる。
だが、その時!
真紀は信じられない光景を目にする事となった。
「憤ッ!!」
気合と共に、恭子の腕が千本に増えたように高速で動き出した。そしてその腕で真紀の渦巻くような連撃を、捌き・払い・流し・弾き、ことごとく打ち落としていく。一発も通らない。全て防がれている。
瞬きせずに眼で真紀が何処を攻撃しようとしているのかを予測し、手刀に掌底、裏拳そして腕刀に内腕刀と、次々に使い分けて外へ内へと拳や蹴足を落としていく。バババババババ、と爆竹のような打音を響かせながら。
さらに信じられない事に、恭子は防戦一方のはずなのに前進し始めた。一歩、また一歩と真紀に向かって。
これでは攻撃しているはずの真紀が追い詰められているように見えてくる。
だがそんな事で攻撃を止めるような雪乃絵真紀ではない。
「オオッ!!」
攻撃の回転を上げる。
もともと真紀のトップスピードはもっと疾いのだ。ただ、打撃に乗せるスピードとしてはあまりにも疾いために使用しないだけなのだ。
徐々に上げるはずのスピードを一気に開放する。それは車のギアをロウからトップギアに切り替えることに似ている。
ゴゴゴゴゴゴ、と衝撃音が聞こえるほど数段疾い連撃を恭子に叩き込んでいく。
(攻撃回転を上げた!? …上等ォ!!)
恭子は前進をするのを中断しハンドスピードを上げた。
(懐が深い……おのれッ!!)
一度始まった真紀の攻撃は途切れる事はなかったが、鉄壁とも言える恭子の防御もまた、破られる気配が無かった。
嵐のような真紀の攻撃を瞬き一つせず叩き落とす恭子。それはまるで、天に舞い昇ろうとしている赤い花弁を厚い雲が妨げているかのような、熾烈な闘いとは正反対に幻想的な気持ちにさせるものだった。
延々と続く真紀の連撃。
しかし、どこか焦る気持ちもあったのだろう。いつしか攻撃の手が粗く大きくなってきた。
大振りになったその打撃を、恭子が見逃すわけがどこにあるだろうか。
「うりゃア!」
一際モーションの大きかった真紀の左フックを、右腕で弾き飛ばす。
一瞬だが体勢がぶれた。今まで連撃に没頭していた為、身体が感覚が付いてこない。真紀らしくないミスだった。
「セイッ」
気合一声。真紀に目掛けて連続蹴りを繰り出す。
ヒュンヒュンヒュン、小気味よい風切音がその蹴りの鋭さを表していた。
恭子の蹴りが自分に当たる手前で体を揺らし、明らかに不自然な姿勢で躱していく。おそらく真紀の類稀なるバランス感覚があるからだろう。そのダンスを踊っているような姿に、攻撃している恭子ですら目を丸くした。
連続蹴りが当たらないと踏んだ恭子は、全身を捻って真紀に背中を見せた。
「?」
闘いの最中、敵に後ろを見せるなど自殺行為。当然こんな好機を逃すわけが無い。
―――それが雪乃絵真紀でなければ…
後ろを見せたその瞬間、真紀はサイドステップして横に跳んだ。
理由は幾つかあるだろうが、一番の理由は、後ろを向いた恭子の双眸が危険な光を宿していたからだろう。
そして、避けたのは正解だった。
とてつもない風圧と共に、さっき真紀が居た場所に恭子の足刀が存在した。ちょっとでも反応が遅れたら真紀の喉笛は、文字通り、足刀によって貫かれていただろう。
わざと後ろを見せ敵を油断させ、そこへ強烈な足刀を叩き込む。韓国が世界に誇る格闘技“テコンドー”は、別名“足技のボクシング”とも評される程、数多くの足技が存在する。これは“ティチャギ【後ろ蹴り】”と呼ばれる技である。
テコンドーを操る業師、それが高梨恭子。
だが蹴り技は放った後に隙が出来やすい。当然、がら空きになった下段が狙われた。
「シッ」
短い息吹と共に、遠心力を効かせた足払いが恭子の足元に向かって抜き放たれた。
抜刀するかのような、しなやかな動きにスナップを十分生かしたその拳は、比喩ではなく足を切断する威力があった。
真紀の拳が当たる寸前、目標である足が消えた。どこだ?
人体がいきなり消えるわけが無い。こんな少ない時間で逃れられる空間は限られている。
(上!)
急ぎ離れる真紀。
そのすぐ後、上から重い何かが落ち砂塵を巻き上げた。
砂埃で一面薄茶色に染まる。
このままでは不利だ、視界が悪い中では闘い難いし相手はこのような悪条件でも闘える訓練をしているかもしれない。
(ここから脱出しなければ…)
方向転換しようと向きを変えようとした時、ドン、と何かにぶつかった。また、反対方向に行こうとしても同じ結果になった。
今まで居た所に障害物は無かった。ましてや真紀ほどもある障害物など皆無だ。となると残りの可能性は……
高梨恭子。やつ以外に考えられない。
やがて砂塵は風によって運ばれ視界が開ける。
居た、真紀の後ろに恭子が。
かなり不自然で奇妙な光景だ。先程まで闘っていた者同士が、今こうして背中を合わせている。しかしお互いを牽制しながら。
こういった場合、いち早く攻勢に転じた方がいい。有利なる、かどうかは判断に苦しむ所だが、一刻も早く何らかのアクションを起こした方がいい事は確かだ。そうしないと相手に有利な利点を与えてしまう事が出てくるからだ。例えば体力の回復や力の溜め、心理的休息、等が考えられる。
背中合わせの静寂………。これまでとは違うのは、躍動感に満ち満ちていることだろう。殺気や覇気が充満していた時と違い、早く動かなければという心が、辺りの雰囲気を変えたのだろう。小鳥の語り鳴きが、ちらほら聴こえ始めた。
だが小鳥の鳴き声が聴こえた所で進展があるわけでもない。
先に動いたのは――――――――真紀だ! 短距離走のダッシュの様に素晴らしい瞬発力を見せ、一気に攻撃可能ポイントへ。
真紀が動いたとほぼ同時に、恭子も動いた。タイムラグはほとんどない、どちらが先に攻撃を仕掛けるのが早いか。
「フッ!」
得意の回転を生かした真紀の後ろ廻し蹴り。その一撃は、地球上に存在する如何なるビックアニマルでさえ粉砕する。
「ラァ!」
体を捻り扇の如き曲線の描く真紀のティフリギ【後ろ回し蹴り】。その一撃は、戦いの歴史に名を連ねる如何なる兵の魂でさえ断斬する。
狙うは一点!
頭蓋骨に定められた毒矢。
威力は絶大!
直撃は死、あるのみ。
チャンスは一度!
必殺の一撃に二度はない、これで決める。
相手は一人!
高梨恭子と雪乃絵真紀、残るも一人。
恐れるものナシ!!
。
ガッ!!!
。
蹴りは決った。
示し合わせられたように、ハイキックは、確かに当たった。
…はずなのに、二人は……
「グゥ…」
「…うぅ」
立っていた。
ぎりぎりと悲鳴を上げる筋肉。そう、二人はあの直撃に耐えたのだ。一撃で殺す為に放った毒矢を一本の腕で防いでしまっていた、が、無傷とは言い難かった。
打突系格闘技には、よく体重別に分かれていることが多い。これは、体重が重い者の方が打重が重いためだ。打重は体重に正比例する。筋肉の量、体格差が顕著に表れるためだ。当然そうなると、恭子より身長や筋肉量が少ない真紀の方がダメージは多くなる。しっかりガードしていても、蹴りの衝撃は殺しきれていない。
だがそんな事は些細なこと。京次のキックに比べれば大したこと無いのだ。
問題は目の前に居る敵の力を、見誤っていた事だ。
真紀は恭子のことをパワー型と思っていた。誰が見てもそうだろう。
しかし違った。敵の本質は違う所にあったのだ。
思い出して欲しい。二人は序盤の睨み合いを除き間を置かずに闘っていたことを。普通なら少しは息をしたりリラックスしたりするだろう、刹那的に短い時間でも。しかし恭子はそのような素振りを見せていない。
さらに際目付けに言うと、恭子はあの真紀の攻撃を弾いたのだ。あの雪乃絵真紀の。
高梨恭子の本質とは。攻撃力もさることながら、それを生み出す圧倒的な体力と常人離れした頑丈さ、それらがあの攻撃力を支えていたのである。
スタミナとタフネス、この二つだけで言えば真紀ですら圧倒する。
それが、
(高梨…恭子か…)
相手を一瞥する。
「………」
「………」
両者は開始線に戻るとでも言うかのように、足を下ろし一歩一歩下がっていく。
恭子を殺すには、回復も追いつかないくらい強烈な打撃を加えるしかない。理想は一撃で。
…出来ない事ではない。だが恭子のタフネスさは自分が考えている以上だとすると、『コークスクリューキック』だけでは役不足。だとすると、危険を冒すことになるが『阿監 鉤監徹・逆ひねり』をブチ込む。それも自分の持てる最大速力で。
真紀は前足に体重をかけた。
(全開で行く!)
目を細め汗を垂らす恭子。
(…やべェな)
真紀が動く―――――直前!
「その勝負、ちょっと待った」
声が掛かった。
戦闘している場には相応しくないほど落ち着いている声だった。
顔を向ける。声がした方へ。
「…何しに来たの」
「こんな殺気を出してれば、心配になって来るのは当たり前だろ」
そこに居たのは命の父親にして、真紀が命以外にもっとも関心を寄せる男、皆月京次。
京次はそのまま二人の間に割ってはいる。
「雪乃絵、これで終わりだ」
「なぜ邪魔するの、刺客は放って置けないわ」
京次は抗議の声を上げる真紀を無視して、反対側の恭子に顔を向ける。
そして意外なことを口走った。
「久しぶりですね、高梨さん」
「こっちこそ。半年振りになりますか、皆月さん」
まるで何年も会っていない友人とする会話のような二人の遣り取り。
「……どういうこと? 京次」
「俺に殺気を向けながら言うなよ」
返答次第ではタダではおかない、彼を見る真紀の目は本気だった。
こと女性関係ではまったく信用されていない京次であった。
「なんだ、知らなかったのか? この人は……」
。
。
。
。
。
。
。
。
「先生!?」
「よぉ、雪乃絵」
玄関の前で、命は目を丸くして叫んだ。
京次は中に入ってお茶を出すと言ったが、恭子はすぐ済むと断った。
「どうしたの? いきなり来るなんて」
「…お前、体育の短距離走テスト、受けてねぇだろ」
「あ」
ジト目の恭子に笑って誤魔化そうとする命。さらに追い討ちをかける。
「お前だけなんだよ、テスト受けてないの。このままじゃ成績が附けられないし、評価下がるぞ?」
「うう…」
「雪乃絵、今日は親御さんの前ではっきり言わせて貰うぞ! そのために態々、家庭訪問までしたんだからな、明日の放課後まで待ってやる。必ず学校に来い! そして必ずヤレ! でなきゃ落第!」
ガーン、という擬音が聞こえてきそうなほど項垂れる女生徒を責める女教師。
これが学校なら問題ないが、人の家の玄関先という状況が笑いを誘う。
それから10分、延々と説教を喰らった命は、ヨレヨレになりながら自分の部屋に戻っていった。もっとも、恭子一人の一存で落第はないだろうが、ショックを受けた命にそんな事を考える思考能力はないようであった。
生ける屍となった命を目で追いながら、後ろに居た京次に頭を下げた。
「どうも、お騒がせしました。皆月さん」
「いえ、こちらこそお手数おかけして。申し訳ありません」
ペコペコと頭を下げながら、京次は不思議そうな顔を隠しもせず訊いた。
「そういえば、なんで命の学校に居るんですか? たしか受け持ちは…」
「いやね、ホントは違うんですけど何か学校に暴漢が押し入ったらしくて」
「はぁ」
「その時、止めに入った体育の先生が怪我をしまして。その人の代わりにアタシが代理教師を頼まれたと、こう言う訳なんですよ。まぁ教えるのは雪乃絵たちが居る学年だけですから、週に2日来るだけで済むんですが」
実は、京次と恭子は以前から技術交換という形で幾度か拳を交えた事があった。時には京次から年頃の女の子の接し方を相談され、恭子を唖然とさせたという事もあった。
「まったく、ただでさえ忙しい時に臨時教師なんて。その暴漢にあったらタダじゃ……すまさ…ないー…」
声が小さくなっていく恭子を不審に思った京次が、視線を辿っていくと居間でテレビを見ているサラの姿が。
「そういえば、その暴漢の中には青いマントを羽織った女が居た、って校長言ってたっけなぁ」
だんだんと恭子の眼つきがヤバくなっていく。
慌てて京次が話題を変える。
「あ、あの高梨さん、もう遅いですし」
「……そうですね。お仕置きは後でも出来ますしね」
「あ、あはははははは」
いつの間にか空は茜色に染まっていた。
京次がドアを閉めた時、ドアの陰に隠れていた真紀が姿を現した。
「やっぱアンタ、雪乃絵の親御さんだったんだ」
驚きもせず振り向きもせず真紀に話し掛けた。真紀は気配を消していたのに。
「…いつから気付いてたの?」
と真紀。もうこの女が何者でも良いらしい。命に危害を加えないのなら。
「最初に会った時から」
気にする風もなく答えた。
「言ってくれれば攻撃はしなかったのに」
「すまんね。三日酔いで気分悪くてさ、声出すのも億劫だったんだ」
「は?」
真紀と京次の声がハモる。
イマナンテイイマシタ?
「いや~皆月さんが止めてくれなかったらマジ吐くところだったわ」
あっけらかんと笑う恭子に、京次も真紀も声が出せなかった。いや、真紀の方は怒り心頭で声はおろか体さえ動かせないでいた。
「…どれくらいの力で私と闘っていたの」
すでに臨戦体勢で構えている真紀。いつでも割って止める覚悟を決める京次。
「う~ん、半分くらいかな?」
赤眼になっていないとは言え、あの雪乃絵真紀の攻撃を出力50%で相手する。そんな事が可能なのか?
「そろそろ時間だから行きますね。皆月さん、また近い内に手合わせしましょう。じゃ」
それだけ言うと京次と真紀の前から去る恭子。
風の様に現れ、風の様に去っていく女。飄々とはぐらかされ、とてつもなく強い教師。
一部の人間を真っ白にしつつ、ビル群の向こうに落ちていく夕日の向こうに、高梨恭子の姿は溶けていった。
「……フ」
じっとその後姿を見つめていた真紀も、ようやく視線を京次に戻した。
「台風みたいなヤツね、あの女」
「まぁ、悪い人じゃないことはたしかだよ」
疲れ果てた顔をした京次の頬に、雪乃絵がそっと手を添える。暖かさが伝わってくる。
真紀の優しさは、気紛れで、それでいて突然だ。
「いつまで…こんなこと続ける気だ」
「気にしないで。京次は命をお願い」
「……判った」
それだけだった。夫婦としての時間は、ほんの少しだけだった。
本当はもっと触れていたい、という欲求を抑えながら京次は家の中へ。
それを見送る真紀の姿は、非常に寂しいものだった。
「寂しいね、それがアンタたちの愛か?」
「!!」
声の主は高梨恭子。真紀のちょうど真後ろでポケットに手を突っ込んだまま立っていた。
あの気配を読むことに長けた京次ですら、この女は欺いていたというのだろうか?
いや、京次を欺く事は不可能だ。少なくとも自分の家周辺に居たなら絶対にバレるはずだ。
ではどういう事か? 答えは単純だ、京次のレーダー外の場所から聞き耳を立て真紀が一人になってから距離を詰めた、そうとしか考えられない。
「悪いが立ち聞きさせてもらった。用件はもう済んだから行こうとは思ったんだけど、どうしてもアンタに言いたい事があってね」
「随分身勝手な言い分ね。それで? 私に何の用?」
「死ぬな」
今までに無い真剣な表情で言った一言は、真紀を無言にさせるに十分だった。
「アンタの瞳は死を覚悟した者のそれに似ている。どんな理由があるにせよ、生きてくれ。そうじゃないと雪乃絵が悲しい思いをする事になる」
無言で立ち去ろうと歩き出す真紀。恭子は引き止めようとしない。
古き日の吟遊詩人の様に語るだけ。
「雪乃絵は明るく振舞ってはいるが、内心すごく寂しがってる。寝たきりになったっていい、生きてくれ」
「判らないわね、どうして他人の事情に口を挟む」
どうでもいい内容ならすぐ殺すと言う口調だ。
「アタシの両親はアタシを庇って死んだ」
「…!」
「だから判るんだよ。一人の寂しさや悲しみつーのがさ、経験あるなら判るだろ」
「……」
命には父親の京次が居る。しかし命の本当の寂しさを癒す事が出来るのは、母親の真紀しか居ない。恭子はそう言っているのだ。
真紀はいつのまにか足を止めていた。
「それに、次は全力で闘いたい。白黒つけたいんだよ」
挑発的な笑みが恭子の顔に華を咲かせた。真紀も同じ様な華を咲かせる。
「勝手ね、嫌われるわよそういう性格」
「遣り残しはしない主義なんでね、それに勝手はお互い様さ」
「…でも、正直言うとあの闘いは釈然としない。だから次会う時は殺し合いになるかもね」
「承知の上さ」
踵を返す恭子。また背中合わせになる二人。
伸びた影が重なる。
「ねぇ…一つだけ訊かせて。あなたは、今、幸せ?」
「…幸せっていうのはさ、過去を思い出して口にする言葉だって、アタシは思う。だから今は、何も言えない。でも」
一拍置いて、再び紡ぐ。
「そういう時ってさ、きっと幸せなんだろうな」
「意外とロマンチストね、驚いた」
「バーカ、繊細って言うんだよ」
誰にも見せた事が無いような晴やかな笑顔を見せ合う二人。
もう相手の顔は見ない、別れの時だと知ったから。
「生きろよ、雪乃絵真紀」
「貴女もね、高梨恭子」
後ろを一度も振り返らず歩き出した二人。
同じ世界に生きているなら、もう一度出会う事もあるだろう。
例えそれが、どんな形になろうとも。
でも後悔はしない。そんな生き方はしてないから。
不器用で、それでいて我が侭で純粋で、優しい女性だから止まることはできないのだろう。
そんな二人はきっと歩くのだろう。
強引でMyWay【自分勝手な道】を。